2025.3.13【訳者あとがき公開】『バベルをこえて:多言語習得の達人をめぐる旅』
装丁=木下 悠
マイケル・エラード『バベルをこえて:多言語習得の達人をめぐる旅』竹内理訳
訳者あとがき
2019 年10 月、外国語の学び方(学習方略)に関する研究を行っている学者が一堂に会する国際会議が、大阪国際会議場(グランキューブ大阪) で開催された。SSU (International Conference on Situating Strategy Use) と呼ばれるこの集まりは、2015 年にオーストリア、2017 年にはギ リシャで開催され、2019 年には日本(http://ssu2019.org/)での開催となった。その懇親の席上、本書に何度も名前が出てくるアンドリュー・コーエン教授と親しくお話をさせて頂く機会があった。その場で、本書についても大変興味深い情報をいくつか頂いた。この本を翻訳するつもりだと彼に伝えたところ、「ぜひやりなさい。とてもよい本だから。でもかなり翻訳者泣かせの本だと思いますよ」とウインクをしながら答えてくれたのが印象的だった。その後、やはり本書でも頻繁に名前が上がるロバート・デケイザー博士の下で博士号を取った研究者なども加わり、様々な話で盛り上がったので、どんな点が翻訳者泣かせなのか、たずねるチャンスはとうとうめぐってこなかった。
しかし翻訳をしてみて、すぐに実感として翻訳者泣かせの諸相が見えてきた。まず、話題がきわめて多岐にわたっていた。言語教育学や言語学はあたりまえとして、脳科学、遺伝学、神経生理学、民俗学、動物学、 歴史学、宗教学、教育学、社会学、心理学、経済学と、その拡がりはとどまることを知らない。人名や地名、様々な外国語の表記も驚くほどたくさん出てくる。これに加えて、著者のエラードは、縦横無尽に論を展開させ、そこに様々な修辞法を放り込んでくるタイプの作家だ。さすがに修辞学で博士号を取っただけのことはある。さらに文学的側面と、科学的側面の両方が併存する文体も曲者だった。きわめつけは、エビデンス重視かと思えば、自らの興味や情緒も大切にする「エラード節」だ。また彼は一気呵成に論を進めることを好むようで、読者が読みやすいように小節に分けるような配慮もしない。これらが混在一体となって、翻訳者泣かせを形成しているのだと気がついたが、そのときはもう手遅れ。どっぷりと彼の世界に浸からざるを得なくなり、COVID-19というコトバが人口に膾炙する直前の2020年1月1日から開始した翻訳作業は、まるまる1年、2020年12月31日まで文字通り毎日続いた。この作業には、純粋な翻訳の他に、(著者との同意のもと)読みやすさを向上させるために節見出しを入れることや、学術用語に訳者注を付けること、さらには理解を促進するための図版を増やすことや、参照箇所、つなぎ部分、索引にも工夫をこらすことなど、様々な仕事が含まれていた。このため、原著版とは少し異なる趣も出てくるようになった。昔からよくTraduttore, traditore.(翻訳者は裏切り者)といわれ、翻訳者は誹りを受ける存在だとされている。原著のすばらしい内容を分かりやすく伝えるためなら、喜んで誹りを受ける決意で今回は臨んだが、果たしてその覚悟と苦労は報われただろうか。答えは読者諸賢のご判断に委ねたい。
こうやって苦労話を書き連ねながらも、実は翻訳過程は楽しみの連続でもあった。まずは、論文や専門書、学会や講演会を通して知りあった多くの研究者と、本書の中で再会を果たすことができたのだ。順不同(で、おまけに敬称略)だが、コーエン、クラッシェン、シューマン、デケイザー、オブラー、アーマン、スキーアン、クック、ギオラ、ピンズラー、セリンカー、ピンカー、ハドソン、スミス、ツィンプリ、フリン、グロジャン、ヘイル、デボット、マリノヴァ・トッド、バードソング、そしてクラムシュにハドソン。第二言語習得や言語学の分野に身を置くものにとっては、どの名前もなじみが深く、一流の研究者ばかりである。彼らのインタビューやコメントを通して、まるで肉声を聞いているような気分になれたのは、本当に幸せであった。また訳者が留学中に、そのキャンパスで授業を受けたことのある米国国防省外国語学校(DLI)の話が出てきたり、院生時代に仲間と格闘して読みあげた専門書の著者ニール・スミス博士の名前が出てきたり、2004年にオックスフォード大学で開催された学習方略に関するセミナーで講義を直接聴かせて頂いたアラン・バドレー博士の話が出てきたりと、思い出に浸ることができたのも僥倖だった。さらに本書で言及されている多くの主張が、自分の博士論文(外国語学習成功者の研究)での結論と軌を一にしていることも大変心強く思え、また楽しい気分にもさせてもらえた。こんな気分にさせてもらえるのなら、少々「裏切り者」になるのも決して悪くないだろう。
さて、冒頭でお話した国際会議に時間を戻そう。コーエン教授は会議終了の翌日、別れ際に私にこんなことを伝えてくれた。「マイケル(・エラード)とのインタビューの際に、もう一つ外国語習得の秘訣を伝えるのを忘れていたんだよ。それは何だと思う。はじめることだよ。はじめてもいないのに、できないとか、向いていないとかいう人も多いからね。」そういうと、またウインクをして、帰国の途に就かれた。なるほど、はじめることか。妙に納得して、私も会場を後にしたのだった。
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