2025.3.8【訳者あとがき公開】『評伝ジョウゼフ・コンラッド──女性・アメリカ・フランス』 山本薫
装丁=木下 悠
本書は、世界のコンラッド研究を長く牽引してきた英国の英文学者ロバート・ハンプソンによる「新しい」評伝 Joseph Conrad(London: Reaktion Books, 2020)の日本語訳である。著者は、ほかにもコンラッドの共作者フォード・マドックス・フォード、ラドヤード・キプリング、ライダー・ハガード等に関する仕事でも知られている。この評伝でもコンラッドは例えばディケンズ、フロベール、ドストエフスキー、珍しいところではジョージ・エリオットなどのメジャーな作家だけでなく、ベッケなどのマイナーな作家とも関連づけられている。約200頁と小ぶりではあるが、コンラッドの波乱の人生と難解なテクストを19世紀から20世紀の具体的な歴史的コンテクスト(文脈)の中において解説する原著は、以下に述べるように専門家が大事にしてきたコンラッドのイメージに揺さぶりをかけるような本格的な評伝であるとともに、学生や一般読者にとっても親切な入門書である。
コンラッドの入門書はいくつか存在するが、最後に刊行されたのがアラン・シモンズによる2006年のJoseph Conrad であり、それからほぼ20年近く経過していることになる。ここのところコンラッド作品の新訳の出版が続いている日本の読者にとって原著は絶好のタイミングで登場したと言えるかもしれないが、世界的に見れば、コンラッド研究ではすでに伝説的存在となっているハンプソンによる評伝がなぜこれまでなかったのかという疑問は当然湧くだろう。実際本書の企画は以前からあったらしいが、2007年にコンラッド生誕150周年を記念して伝記の定本 Joseph Conrad: A Life(Z・ナイデル著)とThe Several Lives of Joseph Conrad(J・ステイプ著)が相次いで出たため、ハンプソンは自著の出版を見合わせたという。こうしてハンプソンが評伝を眠らせている間にコンラッド研究は確実に変化を遂げた。原著はそうした変化を反映しつつ、これまでの評伝とは違う形でコンラッドの人生と作品を見せようとする「新しい」評伝である。
その「新しさ」はまず、原著がリアクション・ブックスというもともとはエディンバラで一九八五年に設立された、アートや建築関連の書籍を専門とする出版社から現代の先駆的な文化人の評伝シリーズの一冊として刊行されたという事実にすでにうかがえる。このシリーズでコンラッドは、思想家ではバルト、ヴェイユ、ドゥルーズやバタイユ、画家ではカーロ、ダリ、マグリット、作家ではウルフ、ジョイス、ベケット、ポーにランボー、フォークナー、メルヴィルといった錚々たる革命児とともに名を連ねている。これは、従来の評伝のほとんどの版元が「英国」(か米国)の出版社で、著者もまた「英国」(か米国)のコンラッド研究者、コンラッドを「英国」の「偉大な伝統」を構成する作家として取り上げ、主として英語圏の読者を想定した入門シリーズだったことを考えると画期的である。
従来のアングロ・アメリカンな入門書は、コンラッドの人生をポーランド時代、船乗り時代、作家時代に三分割し、作家としての活動期間を前・中・後期に分け、「闇の奥」(1902)、『ロード・ジム』(1900)、『ノストローモ』(1904)等の中期の「傑作」に紙面の多くを割き、初期の「習作」と後期以降の「駄作」には申し訳程度に触れるだけであった。こうした構成の背後にあるのは、コンラッド批評の支配的な評価基準、‘achievement and decline’パラダイムだ。コンラッドを「偉大な伝統」に組み入れた当の本人F・R・リーヴィス(英)と並んで戦後のコンラッド研究において影響力をふるったトマス・モーザー(米)のJoseph Conrad: Achievement and Decline(1957)に因んで名づけられたこのパラダイム(評価基準)の下で多くの批評家は、(白人)男性主人公の精神的苦悩を描く中期の心理小説群を特権化し、女性(及び男女関係)という「苦手な」題材を中心に据えた後期作品が商業的に成功してからのコンラッドの作家としての想像力は枯渇の一途をたどると考えた。ハンプソンの評伝は、そのような作家の「達成(achievement)」と「衰退(decline)」の筋書きをただ時系列で辿ることはしない。この評伝を貫くのは「女性」「アメリカ」「フランス」というトピックであり、これら三つのテーマは独立した章を振り当てられているだけでなく、挿話としても随所に散りばめられており、各章を閉じつつ次の章へと読者を導く重要な役割を与えられている。故に(原著にはないが)副題として掲げた。
コンラッド批評において「女性」、「アメリカ」、「フランス」を前景化することは、これまで過小に評価されてきた、「女性」を主人公とする後期作品群、そして、「フランス」を舞台とする晩年の歴史小説群に注目することであり、(『ノストローモ』の舞台の南米ばかりでなく)コンラッドの商業的成功に寄与した北米市場に光をあて、前衛文学の旗手と目されてきた孤高の作家が実は大衆的人気を渇望し、成功を手にしてからはむしろ積極的に広報を利用してきた点(第11章)を強調することである。つまりそれは、序章「コンラッドのイメージ」が概観する、支配的な評価基準の下で繰り返されてきた「英国商船隊の船乗り」や「海洋小説の作家」といったコンラッド像の再考を促すことである。
コンラッドを「英国」という枠を越える(トランスナショナルな)作家としてとらえる原著は同時に、コンラッドを性差別主義者および人種差別主義者とする見方にも反論している。ミソジニスト(女性嫌い)コンラッドというイメージが定着している理由のひとつは、船乗りマーロウという作中人物と作者が混同されているからであり、マーロウの女性蔑視は彼特有のものというよりは19世紀ヴィクトリア朝のイデオロギーの要請だと著者は述べる(第10章)。実際は女性に好まれ、女性の友人も多かったコンラッドは、『チャンス』(1913)に登場するフェミニスト、ファイン夫人の描写が示唆するように、「戦闘的」フェミニズムに彼なりの関心を寄せており、女性参政権の請願書に署名もしている。さらに著者は、『オールメイヤーの阿房宮』(1895)が、見すごされてきたその序文の中で「共通の人間性」を謳っていることに注目し、出版当初植民地支配を称揚する亜流の冒険小説として受容されたこのデビュー作は、実は植民地支配を正当化する人種的優越感をむしろ否定していると主張する(第3章)。
つづく第4章から6章までは、「海洋冒険小説の作家」コンラッドが誕生し、その印象主義的技法が『ノストローモ』で頂点を迎えるまでの過程を、審美的な出来事としてのみならずビジネスライクなプロの代理人ピンカーが登場するまでの物理的・経済的事情によって説明している。ハンプソンのこうした歴史的アプローチの本領が発揮されているのは、アイルランドの自治問題、ロンドンの貧困、「紳士クラブ」同然の政府、反移民意識の高まりといった同時代的文脈の中で『シークレット・エージェント』の「秘密」を解き明かす第7章ではないだろうか。この章の最後でコンラッドのテクストをもう一つの同時代的文脈──移民に対して「敵対的な環境(hostile environment[註⑴])」と化したEU離脱時の英国──へとひらく著者は(まるでマーロウのように)過去を懐かしんでいるように思える。
市場における女性読者の増加は、当時の新聞が女性を対象として立てる新たな戦略に影響する。そうしたコンテクストの中で、女性の存在感が増す後期作品群はついに作者に商業的成功をもたらす。そして、死後にコンラッドを「偉大な伝統」に組み込む英国よりも、生前彼の草稿を買い取り、全集の出版(やのちの映画化)に先鞭をつけたアメリカこそがコンラッドを大作家にする(第11章)──ここから原著は、従来の評伝が駆け足で眺めるだけだったコンラッドの(「達成[achievement]」後の)「衰退(decline)」を、むしろ「出発(departure)」として提示する。
晩年のコンラッドは衰えを見せるどころか、フランスを舞台とする歴史小説群で技巧の実験を続けた。ハンプソンは、その技巧を、読者の期待を裏切る伝統的な「サスペンス(suspense)」ならぬ「サスペンション(suspension:宙吊りの詩学)」(本書239頁)と呼んでいる。ただし、コンラッドの歴史小説は近年やっと議論され始めたばかりでその評価はまだ十分に定まっていない。慎重なハンプソンは、「駄作」とされてきた歴史小説群を「傑作」の地位に格上げして原著を結ぼうとするのではなく、『放浪者 あるいは海賊ペロル』(1923)のエピグラフ──「苦労の後の眠り、嵐の海の後の港/戦の後の安息、生の後の死、これらは大いに楽しいものだ(E・スペンサーの『妖精の女王』) ──が湛える「最後のコンラッド的曖昧さ」(本書242頁)を前に沈黙する。コンラッドの死によって完成を見なかったナポレオン小説『サスペンス』(1925)の結末(ならぬ結末)を模倣するかのように、著者は結末を宙吊り(suspended)にしたまま、大陸の現代思想及びその情動論、思弁的実在論の展開を踏まえた読み[註⑵]にはほとんど触れずに筆(ペン)を置く。
ハンプソンのこの沈黙には、「哲学」と「文学」をはっきり区別する英国コンラッド批評の主流派の、ヨーロッパ大陸の思想に対する嫌悪がうかがえなくもない。しかし、ハンプソンは、引用されることで『妖精の女王』の元々の文脈から離れた『放浪者』のエピグラフの詩句を通して、言葉の意味が発話者とコンテクストにいかに依存するかを問うと、今度は脱コンテクスト化された領域にコンラッドを手放すことで、どうも、自らのコンテクスト化のアプローチすら中断(suspend)している節がある。そうだとすると、原著の結び(ならぬ結び)における彼の沈黙は、主流による反主流に対する「抑圧」に見えて必ずしもそうとは言いきれず、著者自らが「サスペンションの詩学」と呼ぶもののまさに実演のように思えてくる。
他の作家研究における批評の近年の先鋭化を見る限り、コンラッド批評における「新しさ」はもしかしたらその比ではないかもしれない。それだけコンラッド批評は伝統を固く守ってきた。ハンプソンはいわばその保守批評家の代表的存在として、芸術と人生の照応関係に対する素朴な信仰に基づく印象批評的な『西欧の目の下に』読解(第8章)も丁寧に紹介している。同時に、原著の結びで著者は、特に謎の多いコンラッド晩年のテクストの空白から新たな読みを切り開くことを誘いかけているようでもあり、もしかしたら読者はその沈黙の中に〈レジェンド〉からの声なき声援を聴いてもよいのかもしれない。その意味で、遅れてきたこの評伝は、始まりの評伝である。
※この「訳者あとがき」は、『コンラッド研究』号外の「新刊紹介」に初出の、Robert Hampson, Joseph Conrad(2020)の書評に加筆修正を施したものです。このような形での転載を承諾して下さった日本コンラッド協会にお礼を申し上げます。
[註⑴]詩人でもあるハンプソンは、英国の元首相テリーザ・メイが在任中(2016-19)に自らの使命とした移民排除に抗議する詩集 hostile environment(purge, 2019)を編集し、‘testing ground’と題する詩を寄せている。
[註⑵]ヤエル・レヴィンのTracing the Aesthetic Principle in Conrad’s Novels(Palgrave, 2009)や拙書Rethinking Joseph Conrad’s Concepts of Community: Strange Fraternity(Bloomsbury, 2017)を通してデリダへの言及はないわけではないが、主にルネ・ジラールやジャン=リュック・ナンシーを援用し、ドゥルーズもその議論の射程に収めたニデシュ・ロートーの例えばConrad’s Shadow: Catastrophe, Mimesis, Theory(MSU P, 2016)や彼の編集したConrad in the Anthropocene(Routledge, 2018)への言及はまったくない。
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