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2024.5.2危機の時代の物語のかたち ハーン小路恭子 著『アメリカン・クライシス──危機の時代の物語のかたち』の序章公開

危機の時代の物語のかたち ハーン小路恭子 著『アメリカン・クライシス──危機の時代の物語のかたち』の序章公開

装丁=成原亜美 装画=坪山小百合

 

 本書は、文学や映画、音楽などを含むアメリカ文化についての過去3年ほどの研究成果をまとめたものである。とりあげるテクストがつくられた時代は20世紀前半から2020年代の現在まで多岐にわたるが、それらのすべてを統べる主題は、危機=クライシスだ。それぞれの論考は、戦争、人種やジェンダーにまつわる暴力、貧困、気候変動、パンデミック、といった現代の世界を覆う危機に対して、批評に何ができるのかと自問するなかで生まれてきたものだ。この本の企画が立ち上がったのと同時期に世界がコロナ禍に突入したこともあり、危機の時代の批評の役割については一層考えさせられることとなった。それぞれの論考はまた、かねてからのわたしの研究上の関心、つまりは、社会におけるさまざまな危機的状況に対して、文化的創作物がその形式を通してどのように応答するのか、を考察する試みでもある。分析の対象が小説であれ映像作品であれ、批評者としてのわたしは以前から、形式やジャンル、物語の型や文彩(トロープ)のパターンといった文化的テクストの「かたち」に惹かれる傾向があった。形式的側面に寄せる関心を、どうやってテクストが扱う現実の問題や社会状況に接続し、さまざまな政治的・社会的・文化的、あるいは環境上の危機に対する反応としてかたちを読み解くことができるか。文学や映像言語の形式を検討し、それによってテクストがいかに同時代の雰囲気、ムード、言語化以前の情動をすくい取ってそれにかたちを与え、個々の危機的な出来事との間にダイナミックな相互作用を展開するか。それらを探究することが、本書の挑戦であり、目的である。

 執筆のとりわけ初期段階において中心的だったのは、情動理論の文脈において物語のかたちについて考えることだった。その過程で多大な影響を受けたのは、ローレン・バーラントの著作である。日本での知名度はいまひとつだが、文学研究出身で共感概念や感傷小説形式の考察から独自の情動理論へと移行したバーラントの研究は、難解ではあるが、テクストのかたちに関心を持つ自分にとって参考になるところが数多くあった。その探求のめざすところは主として、日常的、私的、社会的生活における危機や、多様なレベルでの生の不安定さ(プレカリティ)に対する情動的反応を文化的創作物のなかに読み取ることにある。代表作『残酷な楽観性』の序文で書いているように、バーラントにとって「危機とは歴史や意識に対して例外的なものではなく、日常性に埋め込まれたプロセスであり、それは何か圧倒的な物事をナビゲートすることをめぐる物語において展開する」(10)ものだった(註1)。危機とは日常に対する例外性として立ち現われるのではなく、日常性かつ現在性というテンポラリティのうちにとどまるものであり、だからこそ不安定な生のただ中にある人びとは、分節化することのできない情動にかたちを与え、物語を生み出しつづける行為において危機の感覚に応答する。そのような実感に、バーラントの批評は根ざしていたのだと思う。ストーリーテリングやナラティヴィティ、要は物語ることへの要請を、情動理論において再定式化したバーラント独自の理論は、なぜ特定の時代に特定の物語のかたちが頻出し、反復的に使用されるのか、というわたしの批評的関心に強力な理論的基礎を与えてくれるものであり、アメリカ文学や文化のテクストのかたちと同時代の危機とを結びつけて分析する上での前提を提供してくれた。本書のなかでも、ビヨンセや南部女性作家の作品のかたちに情動的応答や連帯への契機を読み取ろうとする1章と2章の考察は、とりわけ強くバーラントとその情動理論に触発されたものであるといえる。

 危機の時代の文化のかたちを考察するうえでもうひとつ鍵になるのは、アメリカのうちでも特定の地域、南部である。実をいえば本書の構想段階では、南部研究の本を書こうという心づもりはまったくなかったのだが、書き上げてみれば全6章のうち4章は、何らかのかたちで南部を描いた作品を論じていた。現在では南部以外のアメリカ文化についても広く研究しているが、学生時代からのわたしの継続的な分析対象は、南部の文学や文化だった。なぜ南部のことなんか研究しているのかとしばしば訊かれるのだが、以前は自分でも正直なんだかよくわからなかった。やがてそれが、奴隷制や人種隔離の歴史的負債のうちから立ち現われた南部のテクストが持つ独特のかたち──大きかったり、歪んでいたり、ごてごてと飾り立てられていたり、ときには粗野であったり、ときには神話的なスケールで迫ってきたり──であり、そのかたちが醸し出す恐怖と魅力のアンビヴァレンスなのだと気がついた。

 そのような二律背反的なかたちへと目を向けさせてくれたもののひとつは、南部研究者パトリシア・イェーガーの著作だった。イェーガーは、自分も含め現代においてアメリカ南部研究を専門とする人間にとっては、ある種スター的存在だったように思う。2000年に出版された南部女性作家論 Dirt and Desire: Reconstructing Southern Women’s Writing, 1930-1990 は、女性作家たちが執着的に描いた文学的アブジェクトを軸に、縦横無尽に、なおかつ精読の確かさをもって作品と作家をなで斬りにする特異な研究書であり、それでいて切れ味鋭い武器としての理論を手放さないその姿勢において、南部研究の新しい潮流を代表していた。南部テクストが持つ訴求力は、アメリカという国家が抱える問題を、イェーガーの用語を借りれば「ガルガンチュア的」に、あるいは拡大鏡的に強調して見せるその仕方に根ざしており、表現のレベルにおいては、グロテスクやゴシック的誇張と装飾性、形式性を──つまりは拡大鏡に映し出された大きく歪んだ像のようなものを──志向するさまにあるのだということを、南部を本質化し称揚するためにではなく、むしろ南部を脱構築することにおいて見せてくれたのが Dirt and Desire だった。

 イェーガー以降の新しい南部研究に触発された本書がめざすのは、奴隷制や人種隔離に端を発して、現在も不平等、人種差別、貧困など種々の社会問題を抱える南部を、より広範な意味でのアメリカ社会、あるいは国家の枠組みを超えたグローバル・サウスを覆う危機やプレカリティの磁場のような空間としてとらえ直すことである。伝統的な北部/南部の対立のなかにではなく、グローバルな危機の文脈に南部空間を再配置することは、アメリカという国家自体の性質や、人種や階級にまつわる現在の危機的な政治上の分断について問い直すことにもつながるだろう。つまり、紛争や貧困、社会的不平等、環境不正義といったわたしたちの世界全体を取り巻く危機に応答するための手がかりとして、南部の歴史や文化を再検討できるのではないか、ということだ。国家の危機を凝縮し拡大したかたちで映し出す南部が、日本の読者にも一定のリアリティをもって現前しうる場所であることは、本書で取り上げるテクストを見てもらえばわかるはずだ。南部の危機について考えることはそのままアメリカの危機について考えることでもあり、歴史的に、地政学的に、なおかつ現在性のテンポラリティに引きつけてそれらの危機を考えることでもある。南部の例外性、つまり南部にはアメリカのほかの地域には存在しない特殊性があるという信念は、モダニズムの時代の農本主義者らによって支持されて南部の保守主義を形成する原動力となり、それは21世紀に至っても執拗な顕在性を見せているように思われるが、実際の南部を構成しているのは、例外性の語りの外部にある不安定な(プレカリアス)主体たちが、たがいに触発し合いながら生み出す物語のかたちなのだ。その存在を認め、複数的で複層的な南部の物語のかたちに目を向けることは、非南部的主体であるわたしたちによる危機の感覚の共有や、まだ見ぬ連帯の契機をも孕んでいるかもしれない。

 ビヨンセのヴィジュアル・アルバムから南部女性作家の小説、アニメーションやホラー映画まで、本書の分析の射程に入る作品は、そのジャンルにおいても主題においても幅広い。そのいずれもが何らかの社会的・文化的危機について語っているということを別とすれば、単一の理論や時代性、地域性、文化的アイデンティティのカテゴリーで切って読める作品群ではないかもしれない。章ごとに扱う鍵概念は、ジェンダー、階級、人種、障害、動物と多様である。ともすれば雑多な印象を与えるかもしれないが、そうした主題や文化的アイデンティティの諸相は各論のなかで複雑に交差しており、むしろ全体として、危機について語る際に批評上のカテゴリーが不可避的に交差し合うプロセスそれ自体を浮かび上がらせることを意図したつもりである。

 ただし本書の中盤から後半にかけて自然や環境に着目した作品の分析が中心的な位置を占めているのは、偶然ではないと思っている。3章、4章、6章は、主題や方法論は異なるにせよ、いずれもエコクリティシズムや環境人文学の知見を基本的な参照枠として自然と人間の関係を検討し、その複雑なもつれ合いのなかでどのような新しい物語のかたちが生まれているのかを探究している。環境をめぐる批評分野に関心を寄せる理由のひとつはもちろん、気候変動をはじめとした不可逆的で差し迫った環境危機のインパクトであり、批評者として何らかのかたちでそれに応答すべき必要性を感じているからだ。それに加えて、環境人文学やエコクリティシズムが近年展開しているある種のナラティヴィティへの回帰とでもいうべきもの、環境人文学研究者の結城正美の言葉を借りれば、「新たな未来像、新たな物語を想像する」(16)ための形式や方法論の検討を、これらの諸分野が実践しているところにある。規模と破壊力のひと際大きい戦争や核実験、公害、環境汚染を世界が経験した20世紀半ば以降、黙示録的な物語のかたちは近未来の可能性としてつねにわたしたちとともにあったように思う。しかし、差し迫った環境危機に応答し、その先にあるはずの未来の世界のヴィジョンを想像しようとするならば、それに伴ってオルタナティヴな物語のかたちもまた、想像されなければならないだろう。

 先に言及したパトリシア・イェーガーは晩年にその関心を、自身が「きらめく塵(ルミナス・トラッシュ)」と呼ぶ、破壊と汚染のなかで逆説的にその存在に光を当てられるような、ある種アブジェクト的な両義性を持った事物と、それが生み出す新たな物語の可能性に向けていた。本書の第4章でも言及するが、イェーガーはハリケーン・カトリーナで水没した土地を彷彿とさせる、南部ルイジアナの湿地帯(バイユー)に位置する「バスタブ島」の神話的共同体を描いた映画『ハッシュパピー ──バスタブ島の少女』(Beasts of the Southern Wild, 2012)のレビューを書いている。独特のマジック・リアリズム的なスタイルで現実とも幻想ともつかない水の世界を描いたこの作品を、イェーガーは「社会批評のリアリズムを拒絶して不遜な土地へ、21世紀のための神話の創出という新しい領域へと足を踏み入れる」物語として読む(Yaeger, “Beasts of the Southern Wild and Dirty Ecology”)。確かに『ハッシュパピー』は、汚水に浸された南部の湿地を舞台とし、現実の危機(自然災害/人災としてのカトリーナとアフリカ系被災住民の孤立とニグレクト、さらには南部ももちろん加担している広範な環境汚染)を背景としながらも、前史的な怪物オーロックが跋扈する夢幻的な世界を描いている。逆にいえばこの作品は、超現実的なイメージを用いながらも、人間がみずからの手で壊してしまったその世界をどう生きのびていくのか、その長期的な指針を示すために、神話的な共同体の生成と崩壊、痛切なリアリティを湛えた父と娘の別離の物語を通じて、何度でも水底から新しく浮かび上がるような語りのかたちを生み出しているのだ。それは嵐のあと地上に残される大量の廃棄物や汚水でできた物語であると同時に、人びとが瓦礫と汚水からなる「きらめく塵」のなかにあって、祭礼や葬儀といった儀式の型を通じて世界を再構成していく物語でもある。重要なのは、『ハッシュパピー』にイェーガーが見出したのが、人間のいない世界の物語ではなかったことだ。人びとはそこにいて、淀んだ水に膝まで浸りながら、物語の新しいかたちをひとつ、またひとつと見出し、その媒介者となる。語り続けることへの意思を通して、人びとは生きのびて、神話を、物語のかたちを、次の世代に手渡していく。

 危機の時代の物語のかたちをつくるのは、そのような語りへの意思、ナラティヴィティへの飽くなき関心だ。生きのびるために人びとがつづける語りの試みを、その過程で生み出される物語のかたちの数々を、本書が取り上げる多彩な作品を通じて読者に体感してもらえたらと願っている。

 

(註1)Cruel Optimism は『残酷な楽観性(仮題)』として、岸まどかとの共訳にて花伝社より2025年に刊行予定である。

 

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