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2024.2.21“ゴシック”という戦術──序論にかえて 小川公代 著『ゴシックと身体──想像力と解放の英文学』の序論公開

“ゴシック”という戦術──序論にかえて 小川公代 著『ゴシックと身体──想像力と解放の英文学』の序論公開

装丁=成原亜美 装画=Aubrey Vincent Beardsley, The Peacock Skirt © 1893

 

“ゴシック”の政治性

 “ゴシック”はつねに政治的な機能を果たしてきた。ゴシック小説の夢や無意識の領域と想像力の働きが豊かに語られるようになったのは、吸血鬼物語においてだろう。たとえば、ヴァンパイア──とりわけ女性の吸血鬼──はたんなる虚構の怪物ではない。そこには、19世紀の因習に抗おうとした新しい女性たちの政治的な意識が浮かび上がる。社会で制度化されたものの周縁における過去から召喚された装置を「戦術」(tactiques)として用いたものと考えることはできないだろうか。

 フランスの思想家ミシェル・ド・セルトーは、ミシェル・フーコーによって提起されてきた近代人の抑圧の装置(メカニズム)を言語化しつつ、それをさらに発展させようとした。彼によれば、近代社会の抑圧の仕組みは、パノプティコン的な「一望監視的」あるいは「一神教にも似た特権」だけでなく、「あちこちに散在するさまざまな実践の「多神教」がいまなお生き続けている」ことで機能する(ド・セルトー 145─46)。異端である神秘主義や畏怖の対象となる不気味なものにもその装置は内在しているだろう。ド・セルトーの議論を援用するなら、「その仄暗い地層からひとたび表に出てきた装置」(同、146)は、“ゴシック”と呼べるものに限りなく近い。

 ド・セルトーは、この“仄暗い地層”から現れた装置を、イデオロギーとの両義的な関係を示す「ゾーン」として捉えている(同、147)。これは、「特殊な権力効果をおよぼし、みずからの固有のロジックの働きにしたがいつつ、秩序と知の諸制度にある根源的な転向をもたらしうるような、そうしたゾーン」である(同、147─48)。彼はこうした転向をもたらしうる実践を「戦術」(同、148)と呼ぶのだ。近代西欧の合理性について考えていたド・セルトーはこの「よそ」からやってくるものについて次のように述べている。

 

「西欧の」合理性によって周縁に追いやられたあげく、姿を現して解明される空間を見いだすには、別の舞台がいるとでもいうかのように、よその土地は、われわれの文化がみずからのディスクールから排除してしまったものを、もういちどわれわれに返してくれる。いや、それどころか、よその土地というのは、ほかでもない、われわれが排除したもの、喪失してしまったもののことではないのか。(同、149)

 

ド・セルトーはわかりやすい例としてフロイトの「狡猾」な「戦術」を挙げている。フロイトの精神分析理論の戦術もまた、「よそ」からやってくる、あるいは、すでに喪失してしまった「夢や言い損いという変装」や「無意識のマント」をまとっているというのだ(同前)。

 18世紀にゴシックの一大ブームが巻き起こったが、これはまさに「無意識のマント」をまとって台頭した。『イギリス近代の中世主義』の著者マイケル・アレクサンダーによれば、「ゴシック」(Gothic)はかつて野蛮と不合理性という意味を帯びつつ、「中世の」(medieval)とほぼ同じ意味で使われていた。すなわち、近代の“ゴシック”は不合理性を象徴する中世的なものをまとって「よそ」からやってきた。しかし、この言葉の運用はやがて建築に限定されるようになり、18世紀後半から19世紀には、ゴシック建築の復興を目指した「ゴシック・リヴァイヴァル」という芸術運動が広がった。たとえば、ホレス・ウォルポール(1717─97)によって建てられた中世ゴシック風のストロベリー・ヒルという邸宅こそ、ゴシック・リヴァイヴァル建築の先駆であろう。そして、芸術史家のケネス・クラークもいう通り、ゴシック文化の起源は文学によって説明されうる(アレクサンダー 20─21)。ゴシック様式で名高いこのストロベリー・ヒル・ハウスを手がけたウォルポールが1764年にゴシック小説の嚆矢ともいえる『オトラント城奇譚』を書いたことも、その一つの典型例といえる。

 それでは、“ゴシック”はどのような点で「戦術」であるといえるのだろうか。ゴシック小説をたしなむような読者や研究者の間では、このジャンルは一般的に幻想や怪奇が生みだす恐怖として理解されている。18世紀後半に成立するゴシックの文学においては、幽霊の出現などの怪奇現象は重要なモチーフであり、とりわけその代表格である『オトラント城奇譚』では、城主マンフレッドの長子が突然巨大な兜の下敷きになって命を落とすといった怪奇現象が特徴となっている。そしてその怪奇現象はかつて正統な後継者から位を奪ったマンフレッド一族への報いとして生じている。このような超自然の恐怖は、その後『イギリスの老男爵』(1777)を書いたクレアラ・リーヴ(1729─1807)などに継承されていく。

 諸々の超自然現象の出現形態をどう表現するかはさまざまで、「アパリション」(apparition)、「スペクター」(spectre)、「ヴィジョン」(vision)、「ゴースト」(ghost)、「スピリッツ」(spirits)などといった言葉が例として挙げられるだろう。これらの言葉は、アン・ラドクリフ(1764─1823)やウォルター・スコット(1771─1832)のゴシック小説でも頻繁に用いられる。いずれの言葉も実体のない存在、あるいは超自然的な力をもつ不吉な存在という意味が共通しており、これが“ゴシック”における幻想と怪奇のおもな属性といえよう。もちろん、古い城、僧院、地下の回廊なども、超自然的恐怖を強めるものとして欠かせない舞台装置である。作家たちは、このような恐怖体験や超自然的な事象を純粋に語りたいという動機から“ゴシック”を芸術表現として選んだわけではないだろう。彼ら、彼女らはこのジャンルを、医科学的、思想的、あるいは政治的な言論の場として戦略的にもちいていたと考えられるのだ。

 

想像力と倫理の二本柱

 “ゴシック”はたんなる怪奇物語ではない。それは、恐怖や畏怖の感情を喚起させる物語が作家たちの想像力を介してつくり出されてきたからだ。言い換えれば、想像する力をパフォーマティヴに示してきたのが“ゴシック”というジャンルなのだ。そのことは、ゴシック建築の研究に傾倒していた19世紀の美術評論家ジョン・ラスキンの言葉にも表れているだろう。たとえば、彼は代表的なゴシック建築でもある大聖堂を「人間」の想像力の賜物であると考えた。「北の海と同じくらい激しく強情な想像力」は、「狼のごとき生命力に満ちており、(中略)おのれを暗く覆う雲と同じくらい変わりやすい産物をつくり」だすとラスキンは述べている(ラスキン 26)。

 このような変わりやすさというものは、有限の生命をもち、その時々で感情にも流される人間の“生”そのものである。ただ他方で、人間の想像力は現実に存在しない世界を創造することもでき、そして現実世界に変容をもたらすことができる。このような想像力の所産としての“ゴシック”を踏まえて小説を読み直せば、ブラム・ストーカーによる『吸血鬼ドラキュラ』やその霊感源ともなったシェリダン・レ・ファニュの中編小説「カーミラ」に描かれる夢や無意識の領域とも接続する女性吸血鬼たちの運命は、抑圧されながらもそれに抗おうとするヴァンパイアの物語としても読めるだろう。今でも女性の性的解放は否定的に捉えられがちであるが、18、19世紀における道徳的規範は今よりはるかに厳しいものであった。

 新しい女性たちがつねに怪物化される歴史というものは、社会的な規範や道徳的な因習に抵抗しようとする彼女らを悪魔化することで排除しようとする〈バックラッシュ〉によって説明できる。近代におけるおそらく最も有名な例としては、公的な発言をしたことで保守派たちに「アマゾネス」と揶揄された18世紀のフェミニスト、メアリ・ウルストンクラフトが挙げられるだろう。今日的な#MeTooと共鳴する女性たちによる“声上げ”とも解釈されうるフェミニズム運動はこのように文学作品や映画のなかでなされてきた。第五章では、ウルストンクラフトの娘メアリ・シェリーが書いた『フランケンシュタイン』がフェミサイドを告発する小説として読めることを論じた。また、第八章では、ヴァンパイア小説の映画化『カーミラ──魔性の客人』(エミリー・ハリス監督)の分析を行なった。現代的な文脈から“ゴシック”の系譜を辿れば、これまで見えなかったものが見えてくる。

 もうひとつ本書で疑問に付されなければならないのは、「幻想」、「超自然」、「過去」、「怪奇」などをテーマとするゴシック小説が、人間の理性に対する懐疑を表わすという前提である。たしかに、これらの概念は総じて近代の啓蒙思想と対立する価値観として用いられてきた。たとえばデヴェンドラ・ヴァーマは、18世紀後半に起きたゴシック・ブームの到来を、啓蒙思想が掲げてきた「人間の理性」に対する懐疑、あるいは超自然的な存在(the numinous)への回帰であると説明している(Varma 210─11)。デイヴィッド・パンターも、「ウォルポールが、過去のものと超自然的なものの魅力の両方に接続する(ゴシックという)ジャンルをもたらし、さらに、その超自然的なもの自体が、我々に反旗を翻す過去の象徴になる」と論じている(Punter 56)(註1)。しかし、怪奇現象が起こる物語であれば、それを単純に「幻想的」「超自然」への回帰であると考えてよいのだろうか。

 本書で扱う18世紀以降のイギリスのゴシック作家たち──アン・ラドクリフ、メアリ・ウルストンクラフト、ウィリアム・ゴドウィン、メアリ・シェリー、ロバート・マチューリン、エミリー・ブロンテ、シェリダン・レ・ファニュら──にとって、「超自然」への回帰だけが主たるテーマではなかったはずである。すなわち、読者に向けて“ゴシック”という名のエンターテイメントを生みだす目的を果たすためにこのようなほの暗い物語を書いたのではなかったと筆者は考える。近代西欧の理性主義に逆行する価値──中世的なるもの、あるいは宗教的なるもの──の復活だけが動機ではなかっただろう。かといって、資本主義的な企み、たとえば、読者を怖がらせるような物語を生みだし、小説を「消費」させるという企みだけに駆り立てられたわけでもないだろう(もちろん、それは少なからずあっただろうが)。資本主義的な枠組みにおいて、「超自然」というテーマを扱うことは、作家にとって価値観を転覆させる戦術の一つである。

 

“ゴシック”という戦術

 ゴシック作家たちの取り組みは、中世的なものへの回帰でもない、反対に、利益を追求するだけでもない、リベラルで、かつケアに満ちた倫理的な問題提起であったと考えることができる。たとえば、“男らしさ”や“女らしさ”などの男女二元論、あるいは女性が結婚制度に組み込まれることが「普通(ノーマル)」と考える因習的な社会であれば、そこから逸脱する性のあり方やふるまいへの社会的制裁は大きい。道徳を重んじる社会では、そのような規範の埒外にある関係性に侮蔑のまなざしが向けられるからだ。ゴシック小説はまさにこの「逸脱」をテーマに書かれていたのであり、主人公たちはその「逸脱」という戦術をとりながらも、自分独自の倫理を働かせ、生き延びる方法を見つけていくのである。“ゴシック”とは、因習や道徳に抗う方法論として“想像力”と“倫理”を効果的に運用する近代における新たな装置なのではないだろうか。

 ド・セルトー的「戦術」を踏まえれば、“ゴシック”とは18、19世紀の作家たちが言葉の戦術として近代人の無意識から回帰させたものである、と捉えられよう。というのも、近代社会が掲げてきた合理主義への挑戦がなされてきたのも典型的にこのジャンルであり、この媒体を通して、身体によって突き動かされる人間の非合理性、あるいは非理性の物語が語られてきたからだ。

 

長いあいだ社会という統一体の「肢体」であった身体は、徐々に固有の病気やバランスや逸脱やアノマリーをそなえた一個の全体として個々に区別されていった。(中略)その後この身体は、政治的秩序や天の秩序の模型──「ミクロコスモス」──とみなされ、そうした過渡期をへた後に、一社会の基本単位になった。(ド・セルトー 335─36)

 

国家身体を集合無意識の装置として機能させた言説が、時代とともに個人の身体の言説へと再編成されていくなか、その非合理性のストーリーはなお語り継がれてきた。たとえば、個人主義が確立していく西欧社会において、医学言説にどのような身体の「アノマリー」(異常)が取り込まれ、それがどのように語られるか、という語りである。熱力学や化学に準拠する19世紀の科学モデルが登場するまで「17世紀から18世紀のあいだ、このような身体空間のなかで動く身体の物理学をうちたてようという夢が医学につきまと」ったのだ(同、336)。

 このような語りには、近代社会に蔓延る二元論への抵抗があったと考えられる。それは、あわいの領域への希求を如実に表しているのではないだろうか。たしかに、『オトランド城奇譚』を考えてみても、悪が成敗されるわかりやすい“正義”の物語として読むことも可能であるが、法規制や学問的な枠組み、そして社会的な規範が形成するような道徳が主軸になるゴシック小説はほとんどない。悪漢に命を狙われる、あるいは社会から排除される女性や召使いといった社会的弱者がそのような枠組みで力を発揮することはない。ゴシック小説では、戦略的に、男性に有利な法規制が批判的に描かれることもある。たとえば、家父長的な夫によって精神病院に閉じ込められる女性を描くウルストンクラフトの作品には、こうした社会を変えようとする戦術が効果的に用いられている。  

 このようなゴシック小説における最大の美点は、他者の苦しみに共感することが物語られることであるが、他方で、共感はときに危うさも孕んでおり、どんな場合でも肯定視されるとは限らない。拙共編著『感受性とジェンダー』でもすでに論じたが、このような価値観の揺らぎこそが“ゴシック”の醍醐味である。ゴシック小説を読む行為には、善と悪、理性と感情、頭と心、精神と物質という近代人が思考的癖として抱いてきた〈二項対立〉を乗り越えさせる語りが内在している。主人公たちが体験する恐怖、驚嘆、哀悼などの感情はつねに意思とは無関係に起こる身体運動、すなわち不随意運動と不可分である。ゴシック小説が18世紀の医科学言説の語彙をしばしば用いるのは、理性的とされている「近代人」のアンチ・テーゼとしてよりも、複雑な人間像を描くことを視野に入れていたからだといえる。本書では、近代黎明期に活躍した作家たちがなぜ “ゴシック”という戦略に夢中になったかを解き明かすためにも、この時代に共感や想像力が再評価されつつあった文化背景や医科学言説にも注目したい。

 

(註1)松島正一によれば、「ゴシックは、読者を精神の迷宮に投げ込むことによって、合理性への人間の信頼がいかに薄弱なものであるかに光を当てる」という(184)。ゴシック小説勃興が、18世紀初期の啓蒙主義による人間の良識と理性への信頼からの脱出、人間心理の暗黒面の認識というロマン的なものへの転換を示しているという解釈は、ヴァーマやパンターの主張と矛盾しない。

 

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