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2021.5.26➤岡 裕美 リレーエッセイ(4)✍ 持てる者と持たざる者──韓国文学が描く「再開発」

➤岡 裕美 リレーエッセイ(4)✍ 持てる者と持たざる者──韓国文学が描く「再開発」

ハーン小路恭子さん➤大串尚代さん➤小林エリカさん➤岡  裕美さん

 

✏️ 文=岡  裕美

 

「再開発事業区域および高地帯建築物撤去指示

貴下の所有する表示の建物は、住宅改良促進に関する臨時措置法により幸福3区域が再開発地区に指定されたため、ソウル特別市住宅改良再開発事業施行条例第15条、建築法第5条および同法第42条の規定により、197×年9月30日までに自主的に撤去することを命じます。万一上記の期日までに自主撤去しない場合には、行政代執行法の定めるところにより強制撤去し、その費用は貴下から徴収します。(中略)楽園区区長」

──『こびとが打ち上げた小さなボール』チョ・セヒ著、斎藤真理子訳、河出書房新社

 

 4月7日に投開票が行われたソウル市長・釜山市長の補欠選を前に、韓国社会に激震が走った。土地開発などを手掛ける公共機関、韓国土地住宅公社(LH)の職員らが、ソウル近郊の地域が新都市に指定されるとの内部情報を利用し、同地域の土地を投機目的で購入したとの疑惑が持ち上がったのだ。人々は激怒し、政権への不信感は来年3月に迫った次期大統領選挙の前哨戦とされる補欠選で保守系最大野党の圧勝という結果をもたらした。

 朝鮮戦争により廃墟となった韓国は、1960年代から「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げ、それとともに首都ソウルの人口は爆発的に拡大した。1970年以降、政府は深刻な住宅難を解決するため都心の再開発を行い、市内に残るスラムを撤去して高層マンションを林立させた。その後、40年にわたって不動産価格は高騰を続け、いまや庶民にとってマイホームを持つことは夢のまた夢となっている。一生働いても家が買えないサラリーマンの多くは、一攫千金を狙って株やビットコインへの投資に熱中している。

 不動産価格がここまで高騰するのは、主にマンションが投機対象となっているためだ。再開発地域にマンションが建てられる場合、その地域に住んでいた人にはマンションの優先入居権が与えられるが、住人は高額な賃貸費用や分譲費用を払えず、多くの場合は入居権を転売することになる。それにより不動産価格はさらに上昇し、転売による差益を得ることをもくろむ人々は、再開発が予想される地域の不動産をいち早く手に入れようと群がる。

 このような社会背景は、韓国文学においても重要なモチーフとなっている。冒頭の警告文は、1978年の出版以来現在に至るまで読み継がれているチョ・セヒの連作小説集『こびとが打ち上げた小さなボール』の一節だ。スラムの無許可住宅に住む「こびと」一家は、地域の再開発により立ち退きを命じられる。一生涯働いて建てた家を強制執行により無惨にも取り壊された一家の父親は、工場の煙突に登って失意のうちに自ら命を絶つ。

 再開発を巡る問題は、現代ではより複雑化している。ペク・スリンの短編小説『静かな事件』(李聖和訳、クオン)で、主人公の一家は数年後に再開発が予定されているソウルの貧民街に引っ越してくる。ホワイトカラーの父親は、マンションの建設を見越して入居権を得るためにわざと老朽化した家を買ったのだ。それは主人公を偏差値の高いソウルの私立高に進学させるためでもあった(過剰な教育熱もまた韓国文学に頻出するテーマのひとつだ)。

 ファン・ジョンウンの『野蛮なアリスさん』(斎藤真理子訳、河出書房新社)では、地域の再開発が始まるという情報を得た主人公の父は自宅を3階建てに建て替え、そこに3世帯が住んでいるように偽装して3世帯分のマンション入居権を手にする。作家はこの作品について、2009年にソウル・龍山の再開発地域で立ち退きに反対する住民らが立てこもり、警察が強制排除を行う過程で発生した火災により住民5人と警察官1人が死亡した「龍山事件」が背景にあるとしながら、再開発を推し進めるのは「すでに持っている人たちであり、持っているもののおかげでさらに多くを持つ資格を手にした人たち」であると述べている。

 持てる者がさらに多くの富を得る社会で、虐げられるのは常に持たざる者だ。『こびとが打ち上げた小さなボール』が提起した問題は、30年以上経った現在も解消されるどころかさらに激化している。世界を襲ったコロナ禍は、追い打ちをかけるように庶民の生活を脅かす。公共機関職員らの投機疑惑が国民の大きな怒りを買ったのは、人々がことあるごとに実感させられてきた「不公平さ」を象徴する事件だったからだ。韓国では、不公平な出来事が起こった時によく「相対的剥奪感」を感じたと表現する。本来は社会学用語であるこの言葉は、奪われ続けてきた持たざる人々の心情を代弁している。

 再開発という、格差を増幅させる装置に翻弄される人々の姿は、韓国文学の中で今後どのように描かれるだろうか。それは日本の読者にとっても決して他人事ではないだろう。

 

❐ PROFILE

同志社大学文学部、延世大学校国語国文学科修士課程卒業。2012年、韓国文学翻訳新人賞を受賞。訳書にキム・スム『ひとり』(三一書房)、イ・ジン『ギター・ブギー・シャッフル』(新泉社)、李箱ほか『韓国文学の源流 短編集3 失花』(書肆侃侃房、共訳)、『僕は李箱から文学を学んだ』(クオン、共訳)など。