2020.12.28Literature Ideas You Really Need to Know 編著者リレーエッセイ ♠ 大学における授業と研究【第2回】まじめが肝心▶小島尚人
William Dean Howells © amanaimages PLUS
✏ 文=小島尚人
文学を学ぶことは役に立つ。「英語がペラペラになりたい」という漠然とした願いを胸に大学に入学し、英米文学など自分とは関係のないものだしなんで学ばされるのか意味不明、と決めてかかっている多くの英文学科1年生に向けて、教壇に立って(さいきんでは自宅のパソコンの前に座って)しつこいくらいに繰り返し伝えようとしているのはそのことである。作品という他者に向き合い、その発する声を細部まで耳を澄ませて聞き取ろうとすること。「わからなさ」を解きほぐしてわかろうとするそのプロセスには、英語という他者の言語や、英米文化という他者の文化・社会に対する知識の習得と理解のこころみも必然的に含まれる。くわえて、文学作品はそもそも多義的であり、そうであるがゆえに作品の解釈にも唯一絶対の正解はない。自分の解釈を人に伝わるように言語化してみると同時に、自分とは異なる立場に立つ他者の解釈と向き合って丁寧に理解しようとすることは、多様性を受け止め肯定する柔軟さを身につけることに直結する。異文化理解や多様性といった現代的諸理念を単なるお題目以上のものとするためには、文学の学びこそが力を発揮するのだ。そのスキルを語学力も含めて総合的に磨くためのものとして、英米文学の各科目は意味をもっている。そう、文学を学ぶことは役に立つ。役に立つのである。
虫唾が走る、と、大学生の頃の自分なら言うのだろう。18歳の自分からの軽蔑の視線を常に感じながら教壇に立っている(いまはパソコンの前で右往左往している)。「文学の有用性」を声高に説いてまわり、唯一絶対の正解はないにしても解釈には厳然として優劣が存在する事実を都合よくスルーして「皆がそれぞれの解釈をつくり上げてほしい」と腕を広げてみせる教員の胡散臭い笑顔に辟易し、教室の隅で机に突っ伏してあからさまに退屈そうにしている少年の残像が脳裏をよぎる。そもそも文学は何かのための手段ではない。時代も場所も遠く離れた叡智の作者の言葉に深く触れる、それ自体を目的とした魂の交流。究極的には意味のない、長すぎる人生においてそれは、この上なく心慰められる経験であるだろう。それ以上のやたらな「現代的意義」のでっち上げは的外れであるどころか冒瀆的ですらある。文学は不要不急で役に立たないし、それで(こそ)いいのだ。そう語る自分の声が聞こえる。
ウィリアム・ディーン・ハウエルズという作家がいる。いまから百数十年前のアメリカで、文壇の大御所と呼ばれていた人物である。かれは、ヨーロッパに比べて文化的後進国であったアメリカにおいて、アメリカならではのリアリズム小説のかたちを構想し唱導した。「芸術は民主主義的なものにならなければいけない」とはハウエルズの言葉である。ヨーロッパ型近代小説の前提条件となる社会風俗が未成熟なアメリカ社会においてであっても、実際にありえそうな状況設定と物語展開とをつうじて人びとの生活や人生の現実を描くことで道徳的かつ芸術的な価値をそなえた小説を生み出しうる、そしてそのような小説は非中央集権的なアメリカ社会の多様性を体現し推進するものになりうる、という信念を終生持ち続けていた。アメリカにおいて文学が書かれ、読まれることがそのように「役に立つ」と考えていた。一方で、かれの代表作、たとえば『あるありふれた事件』などを読むと、ハウエルズが自らの理念に対して抱えていた根深い懐疑がありありと感じられ、胸を打つ。理念をまじめに信じているがゆえの葛藤がそこにある。
私はハウエルズのまじめさをまじめに受け止めたい。ハウエルズは編集者・批評家として数多くの作家を発掘しサポートしたが、その中でもヘンリー・ジェイムズの小説を最も高く評価していたことはよく知られている。自分をハウエルズになぞらえることの厚顔を承知で言うならば、私にはハウエルズがジェイムズの小説に惹かれた理由がとてもよくわかる。ハウエルズはジェイムズ作品の真価をついに理解しえなかったのだとする通説に抗して、学問の言葉でそのことを考え表現していくことが、研究者としての自分の課題の大きなひとつである。
教室での私は、たぶんハウエルズほどまじめではない。まとめの講義で、文学を学ぶことがどう役に立つかを縷々説明したあと、しかし役に立つということが文学のすべてではないし本質でもない、と補足する。そして、役に立つかどうかなどという問いは本当はどうでもよく、むしろ、役に立つとか立たないとかということに囚われて物事の価値を判断する人生観がいかにみみっちいものであるかを文学は教えてくれる、ああやっぱりとっても役に立ちますね、と話を混ぜ返してみせる。これもまた、自分の実感に即した偽りのない言葉であることはたしかだ。ただし、それが同時に、たとえば18歳の自分への後ろめたさから発された、ずるい回答であることも意識している。いたずらに煙に巻くことなく正面切って語りきれるようにいつかなりたいと思う気持ちが自分としてはそれなりにまじめなものであることは、照れずにここで言っておくことにする。
❐ PROFILE
法政大学 文学部英文学科 専任講師。研究分野はアメリカ文学、主にヘンリー・ジェイムズ。
✮ この著者に関連する小社刊行物
『Literature Ideas You Really Need to Know: From “Mimesis” to “Sexual Politics”』