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2020.11.25谷岡健彦 ☕ 笑いを期待しながら──遅ればせながら別役実を悼む

谷岡健彦 ☕ 笑いを期待しながら──遅ればせながら別役実を悼む

✏ 文=谷岡健彦

 

 学生時代の塾講師のアルバイトまで含めると、教員として人前に立つ仕事を始めて、もう30年以上になる。長く続けているだけで、教え方はいっこうに上達しない。期末試験を採点していて、授業で強調した事柄が学生にほとんど理解してもらえていないことに愕然とすることも少なくない。それでも、たまにはうまく伝わったという手ごたえを感じるときがある。自分が口にした冗談で、教室に笑いが起きたときだ。

 自分の他愛のない経験と引き比べるのもおこがましいが、一流の劇作家にとっても客席からの笑いはありがたいもののようだ。今年(2020年)の3月に他界した別役実は、1967年に『カンガルー』という戯曲を文学座に書下ろしている。内田洋一の手になる評伝『風の演劇』(白水社)によれば、このとき別役は、自分の書いた台詞に観客が大笑いするのを見て「背筋がぞくっとするほどの快感」を覚えたらしい。笑いを通して作者が観客とのつながりを確かめられるところに、演劇という表現形式の魅力を見出したのである。

 この『カンガルー』で始まった別役と文学座との縁は1970年代に深化し、『にしむくさむらい』などの傑作を生みだした。サミュエル・ベケットの強い影響下に劇作を開始した別役だが、この時期はベケットの呪縛から逃れようと努めていたと後に述懐している。笑いを大切にする劇作家なら当然だろう。『ゴドーを待ちながら』はさておくとして、演劇形式を自壊に追い込むことを目指しているようなベケットの後期作品に触発されていては、観客が大爆笑する戯曲など書けはしまい。

 ベケットと距離を取るにあたって、別役がしばしば言及していたのは、ハロルド・ピンターの「演劇は大がかりで活気に富んだ公的活動です」という言葉だ。戯曲を執筆するのは劇作家の私的活動であるにしても、それを舞台にかけるとなると、俳優や演出家、装置や照明のスタッフ、さらには観客まで視野に入ってこざるをえないということだろう。説教臭いメッセージを戯曲に書き入れることはないものの、別役は台詞の届け先としての観客をつねに意識していた劇作家なのである。

 このように劇作家としての歩みをふり返ってみれば、ピンターの作品から着想を得た『ああ、それなのに、それなのに』が絶筆となったのは、いかにも別役にふさわしいように思われる。2018年に上演された本作は、「注文の多い料理昇降機」という副題が示すように、宮沢賢治の『注文の多い料理店』とピンターの『料理昇降機』を下敷きにした戯曲だ。

 宮沢賢治の童話については説明を要すまい。ピンターの劇は、ベンとガスという殺し屋ふたりが主人公である。「仕事」の指示が来るまで、彼らは地下室で時間を潰しているという設定だ。ベンが読む新聞記事に関してガスが頓珍漢なコメントをしたり、急に動き出した料理昇降機への対応にふたりして四苦八苦させられたりと、劇は面白おかしく進行するのだが、最終的にはガスが「仕事」の標的としてベンの銃口の前に立たされることになる。諧謔味と緊張感が同居するピンターの初期作品はよく「脅威の喜劇」と呼ばれるが、本作はその典型である。

 一方、『ああ、それなのに、それなのに』に登場する殺し屋ふたりの間には、緊迫した空気はほとんど感じられない。男1も男2も、指示が来る前からすでに男1が次の標的だろうと、うすうす気づいているのである。しかも、男1は医者から余命1カ月との宣告を受けていることもあってか、殺されたくないとも強く思っていない。いきおい、ふたりのやり取りはとぼけた調子を帯びてくる。まるで殺された後も生き続けていられるかのような考えで頼みごとをしてくる男1に、男2が「その時にはもう、あなたはいないんですよ」と、しれっと釘をさすあたりは、別役一流の乾いたユーモアだ。

 ただ、この男2の指摘に、男1が次のように返答していることには注目しておきたい。彼は「いるよ」と反発して眼前の空中を指し、「きっと、このあたりにね。そして、お前さんにも聞こえるように言うよ」と言い足すのである。わたしには、この台詞は別役自身の作劇に対する姿勢と重なって見える。彼はベケット以降に劇作を始めた者として、言葉による伝達については全幅の信頼を置けなかったはずだ。言わば、彼岸から此岸へと声を届けようとするような行為にも思えたかもしれない。しかし、それでもやはり、この類まれなる劇作家は観客に向かって言葉を投げかけ続けた。笑い声が返ってくることを心のどこかで期待しながら。

 

❐ PROFILE

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。現代イギリス演劇専攻。俳人協会会員。著書に『現代イギリス演劇断章』(カモミール社)、翻訳書にコリン・ジョイス『「ニッポン社会」入門』『「アメリカ社会」入門』(ともにNHK出版)、句集に『若書き』(本阿弥書店)がある。デイヴィッド・グレッグ『あの出来事』(新国立劇場)など、現代イギリス戯曲の翻訳も手掛ける。