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2020.10.8渡邉真理子 ☕ ソーシャルディスタンスと繭糸の物語

渡邉真理子 ☕ ソーシャルディスタンスと繭糸の物語

✏ 文=渡邉真理子

 

 液晶ディスプレイに人の顔が映し出される瞬間は、同期型遠隔授業が日常の一部に組み込まれた現在でも、やはりいつも唐突にやってくる。対面型では学生の入室から着席までお決まりの手順を踏んだあと、出席確認で個別性をもった顔が認識される。そこでは視点は全体から部分へと概ねなめらかに移動するものだ。小説に喩えるなら開始を告げる「出だし」──ヒリス・ミラーが『文学の読み方』(2002)で比喩的に表現した「開けゴマ」の呪文──がきちんと提示される。一方、オンラインは奥行きのない顔で始まる。勤務先にまだアプリケーションが導入されていなかった4月中旬に個人アカウントで行った初のゼミ。互いの顔が見えた瞬間に学生が発した歓喜と衝撃が合わさった叫び。思えばあれが「開けゴマ」だったのかもしれない。

 こうして始まった新年度は、同期型であれ配信型であれ、一つ一つの授業が紡がれるべき物語となった。それは部分的には蚕と繭の関係に似ている。蚕が外敵から身を守りつつ蛹となり孵化するために作る繭。それを支える繭糸の足場は、さしずめ授業を行うためのミーティング・プラットフォームだ。糸の絡まりに身をうずめて営繭する蚕の姿が見えなくなる頃、浮かび上がってくるのは白くてなめらかな楕円形の輪郭。その美しさは機が熟すまで破られることのない空間の閉鎖性にある。

 誰もが抗菌と消毒に敏感になった外出自粛期間は、冷戦期アメリカの封じ込めを想起させるものだった。共産思想という外敵から市民生活を守るために家を清潔に保ちましょうという民間防衛は、敵がウィルスとなった2020年の状況と一致したのである。この清潔は安全で不潔は危険であるという定式を揺るがすのが、ティム・オブライエンの『ニュークリア・エイジ』(1985)である。冷戦が終結しても世界の終わりをもたらす爆弾に怯える主人公ウィリアムは、時代遅れの家庭用シェルターを作るために穴を掘り「安全は不潔なものだ」と主張する。そこでは小説上の現在である90年代が、ヴェトナムで流された多くの血に対する怒りや世界変革に対する情熱を忘却した「清潔」で「消毒」された時代として描かれている。つまり、除菌された真空地帯では人間ドラマは成立しない。それは封じ込めの失敗を示す亀裂や綻びから現れてくるのだ。

 ここで思い出されるのがウィリアム・H・ホジソンの短編小説「夜の声」(1907)である。遭難事故を生き延びた婚約中の男女が筏で漂流した末に辿り着いたのは、孤島の近くに浮かぶキノコに覆われた難破船。男は石灰酸で船内を消毒し、新妻は船室を掃除するのだが、そこはシェルターとはならない。むしろ手を触れるごとにキノコの増殖は勢いを増し、やがて二人の体を吸収しはじめるのである。この作品が感染症のアレゴリーとなるのは以下においてである。一つは、「今苦しんでいるような代物をつけたまま、健全な人たちの中にもどるのは許されぬ」と判断し島から脱出を断念するという自発的な隔離。もう一つは、男が外洋に停泊している帆船にボートで接近し、その船乗り──小説の語り手──に食料を分けてもらう場面。つまり、食料の手渡しを拒み、島への救助の申し出を拒絶するという徹底したソーシャルディスタンスである。こうしてパンデミック化は阻止され、男が船乗りに打ち明けた悲劇は菌糸に包まれた「物語」のなかに密閉される。

 繭糸の話へ戻ろう。穏やかな隔離空間としての繭は確かにオンライン授業の理想形かもしれない。飼育経験者によれば、夜中に耳をすますと繭の中で蚕が糸を紡ぐ音がかすかに聞こえてくるという。その空間は外からは見えることのないたゆまぬ努力によって築かれているのだ。例えば、夜更けに教員宛にメールで助けを求める学生と、教材準備の手を休めて返信する教員──「課題が間に合わなくても大丈夫だからもう休みましょう」「ありがとうございます、先生も。お休みなさい」。ソーシャルディスタンスを守るためのオンラインという糸の物語は、決して機械的で安定した空間ではない。それは、今にも切れそうな糸を丁寧に紡ぎながら綻びを繕っていく人間的な作業である。

 

❐ PROFILE

西九州大学 子ども学部 准教授。文学修士(福岡女子大学大学院)。専門は戦後アメリカ小説。分担執筆に『アメリカン・ロードの物語学』(金星堂)、『揺れ動く〈保守〉──現代アメリカ文学と社会』(春風社)、『アメリカ文学入門』(三修社)、現代作家ガイド6『カート・ヴォネガット』(彩流社)。

 

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