2020.9.16木畑洋一 ♣コロナ禍、歴史家を触発する
Photo ⓒ Everett Collection 1918年12月撮影。アメリカ陸軍第39連隊がスペイン風邪の感染拡大予防のため、アメリカ赤十字社支給のマスクを着用してシアトルの街を後進する。
✏ 文=木畑洋一
今年(2020年)2月、新型コロナウィルスをめぐる危機の深刻さを実感しはじめた頃、まず読んでみたのは、ご多分に漏れずカミュの『ペスト』であった。学生時代にまず繙いてからおそらく3度目である。かつての読書時の記憶は全くおぼろであるが、描かれているロックダウンを実際ありうるものとして受け止めながら読むことが絶対になかったという点は、確かである。しかし今回は違った。武漢のロックダウンについてのニュースに接しながら読む『ペスト』は、現実と切り結ぶ文学の力を改めて教えてくれた。
その後、コロナ禍に関連する小説をいくつか読んだが、そのなかで私の想像力を最も駆り立てた作品は、米国のSF作家コニー・ウィリスの『ドゥームズデイ・ブック』だった。21世紀半ばのオックスフォード大学史学科では、過去に赴く技術が開発され、「現地調査」として歴史研究に使われている。しかし、中世へのタイムトラベルは未経験。その初の試みを敢行する女子学生が「調査」先で見舞われるペスト禍と、彼女を送り出したオックスフォードを襲う正体不明のウィルス。こうしたお膳立てで、21世紀と14世紀のイギリス社会が疫病の広がりを通じて交錯するという物語である。まがりなりにも歴史を研究している者として、今の事態を歴史的に位置づけてみるとどうなるか、という問題意識は最初からあり、『ドゥームズデイ・ブック』はその関心につながる要素をもっていた。
正直のところ、私はこうした問題を重視してきたとはいえない。もちろん、これまでも歴史のなかでの疫病というテーマは、議論されてきた。W・H・マクニールの『疫病と世界史』という名著が書かれてからでも40年以上たち、人類にとって疫病がもつ意味の大きさは、いろいろな形で語られてきている。そのことは心得ていたものの、同じように人間の生命を奪う戦争と比べてみると、私の歴史意識のなかで疫病が占める位置は常にはるかに低かったのである。
私が関わってきた高校の世界史教科書の例をとってみよう。『ドゥームズデイ・ブック』に出てくる14世紀の疫病(黒死病=ペスト)は、確かに扱われている。19世紀にヨーロッパの都市が整備される背景となったコレラの流行については、触れている教科書もあるが、私たちの本では述べられていない。私自身の執筆部分では、第一次世界大戦での死者が兵士、一般人合わせて約1800万人にのぼると書きながら、それをはるかに上回る数の死者が、戦争末期から直後にかけてのいわゆる「スペイン風邪」によって出たことには、沈黙している。
今回のコロナ禍との比較でかなり知られるようになった「スペイン風邪」では、4000万人にのぼるといわれる数の人々が犠牲となった。今春、コロナとは関係なくウィリアム・ボイドの『アイスクリーム戦争』(アフリカでの第一次世界大戦を主題とした小説で、読了後、故小野寺健氏による翻訳があったことを知り、氏に改めて脱帽)を読んでいると、最後のあたりで、登場人物の一人のドイツ人農場主が、この風邪で死ぬという設定になっていた。日本をも含め世界各地に広がった「スペイン風邪」では、東アフリカでも次々と死者が出たのである。私は、第一次世界大戦やその後のヴェルサイユ体制についてはいろいろなところに書いてきたし、「スペイン風邪」に触れることもあったが、その意味をきちんと捉えてきたとはいえない。そのことの問題性に、改めて気づかされた。
歴史のなかでの疫病の問題は、さらに大きな問題系につながる。疫病の問題は、つまるところは人間と自然の関係に帰着するのである。自然に立ち向かい、さまざまな困難を克服するなかで社会を発展させてきたかにみえる人間が、自然環境によるしっぺ返しを受けている。東日本大震災でも思い知ったそのことを、コロナ禍はまた私たちにつきつけた。人間と自然の関係をいかに築くか、またそのために人間同士の関係をどう整えるか(コロナ危機は地球規模での人々の協力関係増進の必要性を示している)、改めて考える必要がある。人類の歴史を振り返る視点も、そうした課題に応えるものとなるべきだと、コロナ禍は教えてくれた。
❐ PROFILE
1946年、岡山県生まれ。東京大学・成城大学名誉教授。専門は国際関係史・イギリス帝国史。著書に『帝国のたそがれ──冷戦下のイギリスとアジア』(東京大学出版会)、『第二次世界大戦──現代世界への転換点』(吉川弘文館)、『二〇世紀の歴史』(岩波書店)、『帝国航路を往く──イギリス植民地と近代日本』(岩波書店)など、訳書にE. H. ホブズボーム『破断の時代──20世紀の文化と社会』(共訳、慶應義塾大学出版会)など。