2020.7.9岩田美喜 ☕ コロナ下における演劇研究者のつれづれ
✏ 文=岩田美喜
ここのところ、劇場に足を運んでいない。2020年3月13日付で、『ピサロ』(ウィル・タケット演出、PARCO劇場)の公演が中止になったので払い戻しをするという無情なメールが届いて以来、観劇の予定は何も入らないままだ。DVDや動画配信などでぼちぼち何かを見てはいるのだが、それでも「びっくりするほど芝居観てないなあ」という感は否めない。それに対し、同様に映画館にもとんと足を運んでいないにもかかわらず、「びっくりするほど映画観てないなあ」という感覚は希薄だ。映画の見巧者には叱られるだろうが、iPadを洗面所の鏡に立てかけ、歯を磨きながらこせこせした画面を眺めていても、実は私はそれなりに映画を観た気になれる。この感覚には個人差が大きいだろうが、私の場合、一回性が強く共同的な芸能だと理解している〈舞台〉を、映像として個人空間で消費することに対し、とりわけ大きな欠落感を持つようだ。
おそらく私の感覚は古すぎて現状に追いついておらず、例えば「劇団テレワーク」や「劇団ノーミーツ」がコロナ下で模索する新しい演劇のかたちを、正しく理解し得ていないのだろう。そんな自戒を込めつつZoom演劇を見聞してみれば、なんだかずいぶん前に観た芝居が思い出された。ケイティ・ミッチェルがドストエフスキーの『白痴』を換骨奪胎した『……彼女のおもかげ』(... Some Trace of Her, 2008)だ。プログラムに挟んであったチケットによれば、2008年8月11日にコッテスロー劇場で観たらしい。この芝居、舞台の上に多数のカメラが据えられており、役者は舞台の上に散らばって、一見てんでばらばらに勝手な動きをするだけなのだが、各々のカメラが記録したライブ映像がバックスクリーンに重ねて投射されるとあら不思議、『白痴』のサイレントムービーが目の前で生成される様子を観客は目撃できますよ、という趣向だった。
だが周囲の観客は特に感銘を受けた様子もなく、敢えて言葉にするなら「いや、別にこんなもの観にきたわけではないのですが」という雰囲気が客席に漂っていた。記録がないので不正確な記憶になるが、『ガーディアン』だったか『イヴニング・スタンダード』だったかの劇評も星はわずか二つで、はい上手にできましたね、という以外は取り立てて何を言うこともないですよ、といった感じの熱のないコメントだったように思う。
これは多くの芝居好きの率直な感想だろう。観客は普通、技術のみに感心するためにわざわざ劇場に足を運ぶわけではないからだ。我らの多くは、自らが身を置く空間で活動する声と身体が、眼前で生み出す一回性の何かを〈共に経験〉したいのだ。そのように考えれば、観客を置いてけぼりにするどころか、役者同士の交わりの契機すら排除した『……彼女のおもかげ』は、(舞台上で交わっていない役者たちがスクリーン上では交わっているように見えるところが演出の要諦なのだと、頭では理解できても)やっぱり〈舞台〉ではなく、何か別のものに感じられるのである。
オンライン演劇にも同じような、演劇と見せかけた〈何か別のもの〉の匂いがある。もちろん、それが悪いと言っているのではない。COVID-19によって舞台公演が難しい状況が長期化しそうな現状にあっては、たとえどんなかたちでも役者が演技に関われる場を確保していくのは非常に重要なことだろう。しかし、おそらくこれまでだって、NT Liveやシネマ歌舞伎があるから劇場まで足を運ぶ必要性は全く感じないという芝居好きはあまりいなかっただろうし、今後も、たとえ選択肢が増えるのは良いこととしても、オンライン演劇があるから舞台はいらないということには、多分ならないだろう。つまり、オンライン演劇に「新しい演劇のかたち」を探らねばならない状況自体が、翻ってなぜ我々はこんなに「普通の演劇のかたち」を恋しがるのか、という素朴で根源的な問いを喚起するのだ。
恥ずかしながら、この問いに対して私はすでに上で述べたきわめて陳腐な答えしか持っていない。やはり人間は社会的生物であって、神の目で何かを見守るよりは一緒に何かを経験したいのだ。芝居を観に行きたいなあと思う時、私はどこかでバッコスの信女に憧れているのである。
❐ PROFILE
立教大学文学部教授。博士(文学、東北大学)。東北大学専任講師、准教授を経て現職。専門はイギリス・アイルランド近代演劇。著書に『ライオンとハムレット──W・B・イェイツ演劇作品の研究』『兄弟喧嘩のイギリス・アイルランド演劇』(松柏社)、『ポストコロニアル批評の諸相』(共編著、東北大学出版会)、『イギリス文学と映画』(共編著、三修社)。
✮ この著者に関連する小社刊行物
『しみじみ読むイギリス・アイルランド文学──現代文学短編作品集』