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2020.7.1遠藤不比人 ♣対象aが近すぎる──コロナ・ウイルスと不気味なもの

遠藤不比人 ♣対象aが近すぎる──コロナ・ウイルスと不気味なもの

✏ 文=遠藤不比人

 

 現下のコロナ禍は一世紀に一度あるかないかの疫学的かつ公衆衛生学的パニックであるのと同時に社会的なそれでもある。それを社会的なパニックと呼ぶのは、特徴的で症候的と呼んでよい社会的な現象が散見されるからである(「症候的=symptomatic」とは不可視の病根を示唆的に可視化する作用の謂である)。コロナ禍という対処不能な事態に晒された結果、類似の経験(疫病の大流行)を記述した先行テクストを再読しようとする欲望が強く促されている気配である。アルベール・カミュ『ペスト』(1947)が熱心に再論され、ダニエル・デフォー『ペストの記憶』(1722)の邦訳(研究社、2017)が注目を浴びている。これは症候的である。未曾有の経験に言葉を失った人間が、類似の経験をめぐる物語を引用し、その言語喪失という外傷(トラウマ )的「穴」をどうにか埋めようとしているかのようだ。物語(言語)化不能な経験=外傷は、人を不意打ちにして茫然自失とさせるが、それに対するせめてもの防衛は、それに似た物語の想起であろう。人は物語(言語)化できない「現実」に耐えることはできない。

 先だって日本ラカン協会HPにおいて立木康介理事長はそのことを精神分析的に語っている。「目下、世界はCOVID-19という目に見えぬ無数の対象aに席捲され、それとともに口を開けた現実界の砂漠に圧倒されています。甚大な量の刺激に防壁を突破された状態にあるとフロイトが記述した心的装置にも似て、現実的なものを受け止めるはずの象徴界はいま現代社会の至るところで麻痺し、破綻し、機能不全に陥っています」(http://slj-lsj.main.jp/action_plan.html)。

 いわゆるコロナ・ウイルスと呼ばれるCOVID-19とは、現代医学の最先端(医学的言語システムたる「象徴界」)がいまだ捕捉も理論化もできずにいる外傷的な「現実界」であるばかりか、私たちの日常的な社会的ネットワークという象徴界をも寸断しつづけている不可視の「現実的=リアルなもの」であろう。私たちの知覚と認識と知性がことごとく言語によって可能となっているのだとすれば、その世界(象徴界)においてあってはならぬもの(不可能なもの)が、私たちの知覚と認識と知性に対して、不可視で不可知なまま襲撃をしている。この外傷的事態へのせめてもの防衛は、歴史的にすでにかろうじて物語化されたテクストの引用という症候となろう。ラカン派の理論家ジョウン・コプチェクならこれを「対象aがあまりにも近くにある」と言ったはずだ(『私の欲望を読みなさい』(青土社、1998年)、143頁)。対象aとは象徴界の「裂け目」たる「現実的なもの」であるが、それを社会的に共有された程よいイメージ(想像界)に収納することで、既知の物語の対象にかろうじてなり得るものでもある。すでに「ペスト」として文学(美学)化されたイメージは、接近しすぎた対象aと距離を取るための防御壁となる。

 しかし、コプチェクによれば、対象aは定義上「ずっと隠されているべきであったものが不気味に出現する光景」(144頁)にもなる。かつて存在しながらも抑圧されていた酸鼻なものが露出したのだとすれば、それは「ペスト」ばかりでない。本邦のコロナ禍が二重の意味で外傷的であるとすれば、それが露わにしたのは「先進国日本」なるイメージ(想像界)が遮蔽してきた「現実」である。文字通り言語を絶して腐敗し無能な政権、それに寄生するそれに劣らず不誠実で無能力な官僚­­­­­­。COVID-19という不可視で不可知なものが随所で社会生活を寸断し破綻させながら露呈しているものは、戦後日本なる幻想が消え去り、抑圧された過去(戦前)が不気味な対象aとして私たちの「あまりに近くにある」現実ではないか(昨今の国民への「自粛」要請から戦前戦中の国家的レトリックを連想することは容易い)。この外傷的な事態への防衛として、文学的記憶の喚起ではあまりも脆弱である。思えば、国家の根幹たる憲法という法体系(象徴秩序)を蹂躙して恬として恥じぬ現政権は、COVID-19と正確に同一の精神分析的スキャンダルとして、戦後日本という象徴界を呵責なく蝕みつつ、国民の生命を犠牲にすることすら厭わないのだから。

 

❐ PROFILE

1961年生まれ。成蹊大学文学部教授。慶應義塾大学大学院博士課程単位取得退学。博士(学術、一橋大学)。専門はイギリス文学・文化、文化理論。著書に『情動とモダニティ──英米文学/精神分析/批評理論』(彩流社)、『死の欲動とモダニズム──イギリス戦間期の文学と精神分析』(慶應義塾大学出版会)、『日本表象の地政学──海洋・原爆・冷戦・ポップカルチャー』(編著、彩流社)、『文学研究のマニフェスト──ポスト理論・歴史主義の英米文学批評入門』(共著、研究社)、『カズオ・イシグロの世界』(分担執筆、水声文庫)。訳書にトッド・デュフレーヌ『死の欲動と現代思想』(みすず書房)、レイモンド・ウィリアムズ『想像力の時制』〈文化研究 II〉(共訳、みすず書房)など。

 

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