2020.6.16高橋和久 ☕ 外出を自粛して読むディストピア──E. M. Forster, ‘The Machine Stops’
✏ 文=高橋和久
E・M・フォースターの小説は基本的に伝統的なリアリズムの書法に従って書かれているということになっているが、その彼がF・R・リーヴィスなどに酷評された小説論 Aspects of the Novel(1927)で ‘Fantasy’ という章を設けたことはどこか意外に見えながら、よく知られてもいる。「知性度皆無」かもしれないこの小説論を短編に適用することの無理に目を瞑って、‘The Celestial Omnibus’(1908)や ‘The Other Kingdom’(1909)を読めば、作者の意識したリアリズムとの距離感を多少とも理解した気になる。両作を含め短編には幻想色の強いものが少なくないのだが、生前に発表された諸短編のなかで ‘The Machine Stops’(1909)はかなり異色だと言えるだろう。これはAspectsで ‘Fantasy’ と並んで一章を割かれた 「普遍」を志向する ‘Prophesy’ の要素を多分に含んだ作品である。
世情に対する不安とどのように関係するのか分からないけれども、ジャンルで言えば、この数年かなりの読者を獲得しているらしいディストピアものに属する小品ということになるだろうか。あまり取り上げられることのないこの作品を取り上げるのは、最近、多少詳しく再読する機会を得たからというひたすら個人的な理由による。去年の早い段階で翻訳を依頼されたものの、彼の短編では他に好きなものがあるし、などとあれこれ理由をつけて逃げまわった挙句、結局、捕まってしまい、3月に見切り発車の訳稿を提出する羽目になった。ちょうど covid-19 の脅威に世界が慌てはじめた時期だったのが何とも皮肉なめぐりあわせ。というのは、少なくとも日本ではこの災厄の拡大をできるだけ先延ばしするために、ほどなくして「3密を避けましょう」という標語が飛び交うようになったのだが、この短編は「3密」の意味するところを奨励している気配が濃厚だからである。
これはタイトルに暗示されるように、機械を盲目的に信奉していると、気づかぬうちに、或いは気づかぬことにしているうちに、機械が停止して人間社会は崩壊しますよ、といったどこかお決まりの警告があからさまに提示された、ある意味では分かりやすい作品である。その根底にあるのは、H・G・ウェルズに見られる(とフォースターが考えたらしい)素朴な科学信仰への懐疑、疑念であると言われているが、だから時代遅れになったというわけでもあるまい。そうした信仰は現在のわれわれにも広く深く浸透している。現在のウイルス禍を考えてみれば、近代以降、人間は少しずつ蒙が啓かれ文明がずっと進歩してきたのだから、具体的なことは何も知らないし、難しそうだから詳しく知る気もあまり起きないけれども、これまでの多くの病と同じように、先端の科学の知見を駆使してきっとワクチンはできるはず、このウイルス禍も克服できるはず、と多くの人は信じているに違いない。実のところそれは、そう信じなければ世に言う「新しい日常」といったものに耐えられないからかもしれなくて、誰しも信じたいことを信じたいように信ずるという悪癖から完全に自由にはなれないとすれば、無理もない。信仰とはそうしたものだろうから、それは「硬直化」であり「心の糊」であって、「自分は心の糊を嫌う」という潔い断言は、「神よ、わたしは不信心者です、どうかわが不信仰を救いたまえ」という言葉とともにフォースターに任せておくとしよう。
この流通しつつある「新しい日常」は英語の New Normal に与えられた新たな訳語ではないかと思われるが(それなら「新しい当たり前」とか、カタカナ好きのどこかの知事にすり寄るなら「ニュー日常」とか、頭韻に少しは気を遣ったらどうかなどと難癖をつけたら「めんどくせっ」と言われるに違いないから、ここは自粛するのが小市民の務めと割り切るとして)、それが発するメッセージは、これまでの「非日常」が「日常」になります、或いはみんなで「非日常」を「日常」にしましょう、ということに他なるまい。それがどれくらい簡単なことなのかについては評価が分かれるだろう。
たしかにこれまでも文明の発達によってそれまでの非日常が日常化した例には事欠かないのだから。それに伴ってどんな振舞いがノーマルであるかも変化する。現代において長距離を移動するのに比較的高速の交通機関を利用するのは日常茶飯の行動だが、フォースターに言わせれば「空間の感覚」の喪失を伴うこうした状況は数百年前には想像しがたい非日常だっただろう。それならば今から数百年も経つと、われわれにとってのそんな現代的状況が「部屋の空気を変えるのではなく、いい空気を求めて人のほうがわざわざ転地療養」するみたいに「モノを人間のところにもってくる代わりに、人間をモノのところにもっていくためにシステムを使う」という「おかしな時代」だと看做されることになってもおかしくはない。たとえ人々がみな〈機械〉(the Machine)の制御のもと、地中に暮らすという(今のわれわれから見れば)非日常が日常化されるには多くの時間がかかるとしても、である。
このように過去の時代を見下したように捉えるのが〈機械〉の全能性、無謬性を信じて疑わない女性ヴァシュティ(Vashti)で、必要を感じない以上、彼女が〈機械〉によって割り振られ、あらゆるものを完備した自室の外に出ることは滅多にない。息子とだって Zoom だか Skype らしきものを通して「会うことができる」のだし、と彼女は思う。ところが聞きわけのない息子クーノ(Kuno)は「〈機械〉を通さないで会いたい」と言い張る。次第に明らかとなるのは、ヴァシュティが自粛を要請されるまでもなく外出を恐れているらしいということである。それも無理はない。実際、気乗りしないながら息子の住む個室に向かうために飛行船に乗った彼女は、よろめいたときに「助けようと手を差し伸べ」るという客室乗務員の「野蛮な振舞い」を甘受するという「直接経験の恐怖」を味わうことになる。「人は互いの身体に触れあったりしないもの」であり、「〈機械〉のおかげで、身体に触れあうなどという習慣はすっかりすたれて」いるのである。
この新しい世界では「3密」などは過去の遺物になっていて、個人と個人の具体的接触を稀薄化する New Normal の唱える究極の理想が実現されている。そこはジシュクトピアなどでは断じてない。ウイルスに感染する危険とは無縁のディストピア、いやユートピア。乗務員は「乗客に直接話しかけなければならない」という職業のせいか、「少しばかり他の人たちとは違って」いて「どこかがさつ」であるがゆえに倒れた乗客を助けようとしたわけだが、その行為は「何て厚かましい!」「身の程をわきまえなさい!」と相手から叱責を浴び、その乗務員は「倒れるがままにしなかったことを詫び」る仕儀に立ち至る。まさに social distance を無視した振舞いというわけだろう。
この social distance という言葉(作中で使われているわけではない)の使い方はわたしとしては適切だと思うが、「社会的距離」というこれも最近ときどき耳にする日本語は日本語として何だか奇妙な気がする。明治以降「社会」というどこか曖昧な訳語を与えられた society の形容詞の訳語は「社会的」と決まっているのだからこれでいいのだ、というのなら、ある種の踊りは「社会的ダンス」と呼ぶべきではないのか。ダンスに知恵を借りる謙虚な姿勢があれば「社交上の距離」くらいの訳語は容易に思いつくはず。言葉をどこまでも軽視するおそらく未曾有(「ミゾウユウ」と読む人もいるらしい)の風潮を一般論として云々(「デンデン」と読む人も)するつもりはないが、現在使われている social distance の主な文脈を考えれば、せめて「対人距離」くらいまで噛み砕いてくれないと、「社会的距離を2メートルに」などと言われて誰もがすぐに了解できるとは思えないし、多くの人はこの表現に最初に接したときには戸惑ったと思いたい。「社会的距離を保とう」という標語は、わたしの語感に従うなら、例えば、政治家が便宜供与を疑われるような相手とゴルフに行くとか、検察庁の人間が情報を利用されるかもしれないジャーナリスト相手に賭け麻雀をするとか、有力官庁が有力民間企業と異常接近するとかいった行動を戒めるためのもののように響くのだが、これは、時節柄、殺風景な自室にこもって、もっぱらアルコールによる体内消毒に精を出すのに比例して、ひたすら心中に毒をため込んでいる人間の曲解なのだろうか。そう、これはそうした意味をも含んだ皮肉な名訳なのだと納得した方が心の消毒になるのかも。
「社会的距離」を定める規範から逸脱した行動はふつう、顰蹙を買い非難を浴び処罰される。どうやら身勝手な新しい規範(new norm)を作ってまで New Normal の浸透を図る厚顔無恥な中老年の行動を許容するほど「民度のレヴェル」の高い社会もあるらしいが、フォースターの描く社会でそんな行動は許されない。そこは「強い肉体を持つことは欠点」であり、「幼児は誕生時に全員検査され、並外れた体力の持主になりそうな幼児はすべて駆除される」(ヴァシュティを含め、この世界の住人の肉体がおしなべて貧弱であることが何度か示唆される)社会であり、「直接経験から得られるアイデアなどは存在せず」優れたアイデアは二番煎じ、より優れているのは十番煎じのものと力説される社会である。直接経験の典型としての身体接触に対する嫌悪に端的に窺われる肉体性の忌避を社会規範とするこのようなユートピア/ディストピアに、この種の作品の定型として当然ながら、何らかの違和感を覚える人間がいる。
〈機械〉を崇拝するヴァシュティと違って「不信心者」であるクーノは身体で感ずる直接経験を求めるのである。「3密」回避が日常化した社会、というより、それが日常である以上、回避が回避と意識されない社会にあって、在宅が外出の自粛によるものであるとは意識されなくなった社会にあって、彼は死を意味する〈ホームレスの刑〉を受ける覚悟で、外出許可証をもらわずに、苦闘の末に地中を脱出、地表を訪れることに成功する。
その冒険に備えて元々「なかなかの体力の持主」であった彼は、さらに筋力をつけるために鍛錬を重ねてもいた。その目指すところは、星座となったオリオンやかつてのウェセックス王アルフレッドに彼が心を寄せることを考えれば、フォースターのある特性、A Passage to India(1924)で法廷に入ったアデラ(Adela)が最初に目を惹かれる「その場でもっとも身分が低く、職務上裁判とは無関係」である釣扇係の男の「ほとんど裸」の肉体の「力強さと美しさ」を詳しく描写する視線(24章)に窺われる特性(この短編でもクーノは「裸」の存在としての人間を強く意識する)、と相通ずるところがあるだろうが、そうした作者にとってのおとこ性という問題には深入りせず、ここでは、ユートピアの崩壊を目の当たりにしたヴァシュティが最後にクーノとの一体感を得て、「肉体の華」としての人間の「肉体に対する罪」を犯していたと自覚するに至るという点を確認するだけに留めておこう。
非日常が日常化したら、今の自分には想像できないことが起きるかもしれないと想像するくらいは個人の義務かもしれなくて、New Normal が少しもノーマルではないこと、それを支えるような規範の通用する世界に「希望はない」とこの作品は主張する。会いたい人には直に会いたいし、対面で授業をしたほうが、伝えたくないことも含めてより多くのことが伝わる。わたしには当然と思えるこうした文学の源となる現実が、しばらくの間は続くことを願いながら、この短編に登場するひよわな人物と同じにならないように、紙の本を落とさないくらいの筋力を維持しておくのも expendables の一人としての矜持かもしれない。ついでに、尤もらしく喧伝される「新しい日常」には「新しきあたりき」でも提案して対抗しようかしらん、あまりしゃかりきにならずに。
❐ PROFILE
東京大学名誉教授。元立正大学教授。京都大学文学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科英語英文学専門課程修士課程修了。著書に『エトリックの羊飼い、或いは、羊飼いのレトリック』(研究社)、訳書にJ・G・バラード『太陽の帝国』(国書刊行会)、グレアム・スウィフト『この世界を逃れて』(白水社)、E・M・フォースター『果てしなき旅』(岩波文庫)、アラスター・グレイ『哀れなるものたち』(早川書房)、ジョージ・オーウェル『一九八四年』(ハヤカワepi文庫)、ジョゼフ・コンラッド『シークレット・エージェント』(光文社古典新訳文庫)など。
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